ニジイロシャボン
 




 淡い朝日を受けて開こうとする目蓋は重かった。
 ゆっくりと目を開く。まどろみと覚醒の堺を見つめる瞳は、ただ光のみを見ていた。
 完全な思考停止。自然に体が動く事に身を任せている。
 ふと、頬が枕下の湿気を知覚した。
(……?)
 それから自分の居る場所を「ベッドの上」と知覚して、少しするとすぐに 枕下に感じる湿気は涙である事に気付く。目の回りが目やにでツッパっていた。
 悲しい夢を見たのだろうか。
 内容は思い出せなかった。
 ただ、胸騒ぎだけがしている。
 ぐずつく鼻をかみ、ゴミ箱にティッシュを放る。
 掛け時計を見上げる、まだ起きる時間には30分早い。
「春眠暁を覚えず……」
 そう呟いて、二度寝に入った。洋一は朝に弱いのだった。


*


「グッドモーニング、アニキ! 眠気なんて吹き飛ばしちゃって、早く 起きて下さい! シャキッと起きて、今日も一日元気に行きましょう!! なお、この目覚ましが鳴ってから5分経っても起きなかった場合、 あなたの妹・鈴凛ちゃんに資金援助……」
「わかった、わかった……」
 耳元で騒々しく鳴る目覚ましのスイッチを、条件反射のように切る。
 そのまま起きあがり、春とはいえまだ少し冷える空気を吸い込んでダイニングに向かった。
 しかし、その前に洋一にはする仕事があった。
 1階に下りた後、ダイニングとは反対方向に歩を進める。
 目的地までは、およそ徒歩30秒程である。不自然に、一直線に伸びた廊下を渡る。 廊下というか、『はなれ』に向かうので通路と言った方が正しいかもしれない。
 30秒と言うが、あくまで洋一の感覚としての30秒である。測った事は無い。
 『作業中、入るときはノック!』と書いたプレートの付いた扉の前に立って、 プレートに従いノックをした。反応が無いのは分かっていたが、 朝はなんとなく扉の言う事を聞いてしまうのだ。
 反応が無い事を確認すると、扉を開いた。
 朝の爽やかさなど微塵も感じられない、油とススの混じった重厚な空気が鼻腔を突く。
 朝方は、ここの空気を吸っただけで胃が重くなる。ここに居れば3日間はものを食べなくても なんとかやっていける筈だと洋一はいつも思っている。
 油膜がまとわりつくような空気をかきわけるように歩き、入って左手にある「コンピューター作業室」に入った。
 立ち上げっぱなしになったパソコン。ディスプレイは難解な数列を並べて光っている。
 椅子には誰も座っていない。
「作業中に気絶ってトコか……」
 やれやれ、といった調子で頭を掻き、コンピューターから伸びるコードを踏まないようにして歩く。
 向かいの扉が開け放たれた『実験室』に入ると、案の定その部屋では人が寝ていた。
 カプセルのような入れ物の中に入って眠っている。ブルーの照明に照らされた姿は、 アンドロイドか何かを彷彿とさせる。
「新しいベッドか? おーい、起きろ」
 カプセルを叩いて、中で眠っている鈴凛に声をかける。が、反応が無い。
「……防音機能?」
 引き続きノックを続ける。さっさと起こしてしまいたかった。
「起きろよ鈴凛、それに……早く何か着ろよ!」
 アンドロイドっぽい演出がしたいのか、はたまたこれもこのカプセル型ベッドの仕様か、 鈴凛は一糸纏わぬあられもない姿で目を閉じていた。
妹とはいえ、もう良いトシである。兄といえどもムラムラというか何というか、劣情を催す姿である。
この劣情をハッキリと自覚してしまえば途方も無い自己嫌悪が待っている。
「早く起きろーっ、ガッコーに遅れても知らんぞ」
 鈴凛に背を向けて大声をあげた。
「……もう起きてますよー?」
「起きてるなら、早く服着ろよ」
「やだなー、アニキ。アタシはそんな健康法は実践しないわよ?」
「だったら寝惚けて脱いだのか?」
「アニキ、何言ってるのかサッパリわかんないよ。さっきから後ろ向いてどうしたの?」
「いや……そりゃあ……」
 後ろを向きたいというエロ心が無いワケではない。
 何が言いたいのかよくわからんが、とにかく早いとこ服を着ろ! と、じれったく思った。
「アニキ、背中でお喋りは良くないな」
 鈴凛が目の前に回り込んで来た。 「うわっ! ちょ、ちょっと待て!」
 洋一はのけぞった、が、それから一瞬でパジャマを着た鈴凛を確認した。
「イズ イッツ イリュージョン?」
「ノンノン……アニキ、今日ちょっとおかしくない?」
「いや、さっきまで服脱いで、変なカプセルで寝てただろ」
「あー、なるほど……アニキ、勘違いしてるよ」
 クスクスと鈴凛が笑う。
「勘違い?」
「そう。アタシと『アンリ』を見間違えるなんて、アニキもまだまだ修行が足りないなー?」
「鈴凛、今度は俺の方がよく話を飲み込めない」
「エヘヘ……完成するまでヒミツにしておこーとは思ったけど、ここでお披露目ね。 『アンリ』はね、アタシが作った人型メカなのよ! 今までの研究と発明の結晶、 アタシの可愛い一人娘……『アンリ』はアニキをサポートするタイプのメカでね、 家事はもちろんの事、護衛だってバッチリこなしちゃう……予定なの。 あ、ちなみに『アンリ』は漢字では、あんずの「杏」に、ナシの「梨」ね? 『アンドロイド鈴凛』を略して『アンリ』。どーしてナカナカ、良い感じでしょ?」
 鈴凛はまるで親バカのようにまくし立てた。
 しかしここまで発明のレベルが、実験段階とはいえ高い所まで来ているというのなら、 洋一はただ感心するばかりだった。
「すごいなぁ、鈴凛は」
 何のヒネリもない感嘆が漏れる。
「えへへー、もっと褒めて」
「超すげぇ」
「アニキ、語彙無さ過ぎ」
「……そりゃスポンサーに言うセリフじゃ無いな?」
「あーん、アニキってばそういう立場でモノを言う? 良くないなぁー」
 甘えた声で鈴凛は微笑む。
「『超すげぇ』以降は、そのアンリってのが完成してから言ってやる」
「手厳しいスポンサーだことで」
「身内には厳しいのがケンゼンなソシキというものだ」
 フッ……と目線を遠くにやってみせると、その先に時計があった。
「まぁソシキ云々は置いておいて、ゴハンにしよう」
「はーい」
 『ラボ』から出て、また通路を渡る。今頃は自動朝食調理器『カツオくん』が 朝飯を作ってくれているだろうと思い、冷めないうちに……と、歩を早めた。
「クスクス……アニキったらおっかしい♪」
「何が?」
「アンリちゃんにドギマギ」
「……今度は何か着せておけよ。ホータイとかでも良い」
「アニキってば、やらしー♪ ホータイなんて、ますますマニアック……」
「……」
 こうなれば、と、だんまりを決め込んで歩く。後ろでは鈴凛が「エロアニキエロアニキ……」と 笑いながら歩いている。
「やっぱり、なんか腹立つ!」
 結局、我慢出来なかった。
「あ、あー! アハハハハ! アニキ、それくすぐったいからヤだって!!」
 『ウソプロレス技』
 それは、洋一がテレビの見よう見真似でかけるプロレス技である。
 見よう見真似なのでもちろん破壊力は無い。この『アオダイショウツイスト』(命名:鈴凛)は 貧弱を通り越してくすぐったいだけの技だった。が、一応この技の発動が鈴凛に 『ここで区切りにしとけ』というサインになるので、洋一は子供の頃からよく使っている。
「わかった、わかったアニキ! もう言いませーん!」
「こんにゃろ、アニキはノーマルだ」
 気付けば、もう肌寒さも忘れてしまっていた。
 ひとまず鈴凛に一区切りつけさせて、ダイニングのテーブルについた。
「今日はハムカツね……」
「鈴凛、『ミソスープくん』の完成はまだか?」
「アニキ、朝はカツで気合入れて、カツカツ行かなきゃ」
 そりゃ昼夜感覚の無い鈴凛はカツを朝方に食っても平気なのだが、洋一にとってカツは 中々の強敵だった。『カツカツ行く』への道は遠い。
「明日の朝ゴハンは?」
「メンチカツ」
 早く壊れた炊飯器を修理して欲しいと思った。
「アニキ、マヨネーズ出して」
「はいはい……」
 ちなみに冷蔵庫も鈴凛製である。「北極くん2号」からは、冷凍マヨが転がり落ちる。
 横にある普通の冷蔵庫から、マヨネーズを取り出して鈴凛によこす。
「北極くん2号はご機嫌ナナメのようだ」
「うーん、出力調整が上手く行かなかったのかしら?」
 発明の出来る妹というのも、考え物なのである。
「食べ終わったら、サカナにエサやっておけよ? 最近世話サボってるだろ」
「あっ……そうだった。きっとみんな、お腹空かせてるよね」
「研究も良いけど家の仕事もやってくれないと……ごちそうさま」  カツを水で胃に流し込むようにして朝食を済ませ、身支度を始めた。
 この辺りは自力でやることになっている。鈴凛曰く、 「メカとはいえ……脱がされるのはちょっと、ねぇ?」
 との事だった。確かにパンツの世話ぐらいは自分でしたい。鈴凛の言葉を聞いた時、洋一は 大きく頷いた。アナログの素晴らしさが、鈴凛と暮らしているとよくわかるのだった。
 一通りの準備を終えて、カバンを提げる。
 後からぱたぱたと鈴凛がやってきた。
「ブレザーの襟が曲がってるぞ」
「あ、ホントだ……」
 玄関前での最終チェック。
「アニキはネクタイが曲がってるよ。直して欲しい?」
「自分でやるって」
「つれないなー」
 いつもの朝である。
 扉を開けば、春の緩い空気が吹き込んだ
「テストも今日で終わりだね」
「ああ。もう帰ったら存分に寝るぞ」
「ダメダメ、今日は一日、アタシの研究をお手伝いして貰わないと」
「早帰りなんだから、ぐーたらさせて欲しいよ」
「アニキはいっつもグータラでしょ?」
「人をナマケモノみたいに言うな。俺だって色々やることはある」
「例えば?」
「……色々だ」
「ふーん」
 何かツッコんでくれよ! と、いささかの寂しさを感じながらの登校。
「新技か……」
「へ……何のこと?」
「あ、いや、なんでもない」
 鈴凛は唐突に物思いに耽り出す。いつでもどこでも夫婦漫才みたいなノリでいると思ったら 大間違いなので、鈴凛も中々難しいものなのだなぁと、しみじみ洋一は思っていた。
 会話が無いのを苦痛とは思わない。二人の登校における無言が気まずいのはカップルの 類である。冷めているとは言わせない。
 洋一は心密かに、世界屈指の愛妹家を自負していたりする。
 暖かな光の雨を降らせる空を見上げた。
 飛行機が飛んでいた。
 ゆっくりと時間は進んでいる。光景はいつもと変わらない、見慣れた景色。
「この町は良い、時間が止まってるんだ」
 洋一は、そう言って自分の住む場所を誉めている。
「今日も平穏無事……」
 どこからか飛んで来た早咲きの桜の花弁が、頬に触れた。

*


 物事というのは、どうして順調だと思っている時に突然ガクリとなるのかと洋一は思った。
 つい5時間程前の自分のノーテンキさを呪う。現実を甘く見過ぎていた。
「さらば平穏無事」
 先程春風が吹いてキラキラと輝くようだった空、自分の背景全ての壁紙が剥がれ落ちたようだった。
 郵便受けに入ったエア・メールを握り締めて、わなわな震える。
 宛名には「愛する家族様へ」。
「何が愛する家族様だよ……」
 吐き捨てるように呟いて、封筒の紙をちぎって開いた。
 『グッドモーニング、いや、それともイブニングか!?』
 やたらとハイテンションで始まる書き出しに辟易してしまう。この文体は苦手だ。
 『私の職場では今、SUMOUがとてもアツい』
 文体が苦手なら、その書き手はもっと苦手……というか嫌いである。
 『閑話休題、ダディからのビッグニュースです』
 洋一は父親が嫌いだ。
「……またいらん事を書いてるに違いないんだよな……」
 『なんと! 愛するマイサンである洋一君に新しい妹が出来ます!!』
 こんな事を突然言い出す父親が、いや、あのバカオヤジが、洋一は大嫌いである。
 新しい妹! そんなメチャクチャな事を言い出すバカオヤジがたまらなく厭なのだ。
 新しい妹! ふざけるのもいい加減にして欲しい。
 新しい妹! 今までエア・メールにはいつも迷惑が添乗している。
 新しい妹! ……。
「……新しい妹!!?」
 あまりの突飛な単語に、洋一の反応は遅れてしまった。
 いくらなんでもこれは殴ってスッキリ、笑って済まされる事ではない。
 正気の沙汰か、一体あのバカオヤジは出張先で何をやっているのか……!?
 『この手紙が着く頃には、もう来てる頃かな? とてもチャーミングな女の子なので、 きっと洋一君も喜ぶと思います』
「なんだそりゃ、なんだよそりゃ!!」
 大混乱した洋一は、そのままエア・メールをくしゃくしゃに丸めてドブに捨てた。
 バカオヤジは平穏な日常というものに、平気で鉄槌を落としてくる。
 あのバカオヤジのせいで、どれだけ日常が引っ掻きまわされた事かわからない。
「妹って……今度は一体どういう厄介事だ?」
 玄関前の郵便受け前で憤怒する男、洋一。こころなしか通行人との距離は遠い。
「アニキ、そんなに怒ってどうしたの?」
 後ろから鈴凛の声が聞こえる。錯乱した顔を見られるのは具合が悪いと思い、 郵便受けに向かって話す形になる。
「いや、またあのバカオヤジが面倒事を……」
「え……パパから? 見せて見せて!」
「捨てた。あんなトンデモない手紙を読んだらお前も気がふれるぞ」
「アニキ、そういうの良くないよ」
「……今日辺り、うちに新しい妹が来るんだそうだ」
 と、言った瞬間。
 空気が急に固まった。
「アニキ、それって……」
「うん?」
「こ、このコのこと……?」
 そんなベタな……と思いながら、おそるおそる、本当におそるおそる、洋一は首を後ろに回す。
 何か目が、見てはいけないものを写している気がする。
 鈴凛の後ろに、誰か立っていた。
「あ、あの……カイドウヨウイチさんって、あなたのことデスか?」
「え?」
「だから……あの、あなたがカイドウヨウイチ……兄チャマですか?」
 『兄チャマ?』
「いや、なんだ、その、どちらさまですか?」
 今確かに、鈴凛の後ろに立つ誰か……鈴凛と同じ程の年頃の少女が、洋一に向かって 『兄チャマ』と呼んだ。そんな事は『聞こえている』だが『わかっていない』。
「はいっ! 四葉の名前は、四葉って言いマス! はるばるイギリスから、あ、兄チャマを チェキする為にやってきて、それから兄チャマにタックサンお世話になるので、 フツツカモノですがどうぞよろしくお願いイタします!」
 唖然。
 鈴凛の顔に目線を写す。カチンカチンに凍っていた。
 鈴凛は行動不能である。
 洋一も行動不能になってしまいたかった。
「丁寧な自己紹介……あ、ありがとう……うん、そうだよ。お、俺が海堂家の長男こと 洋一……趣味は読書と音楽鑑賞です」
 錯乱が錯乱を呼び、何が何やらわからなくなってしまっている。
 眩暈を起こす寸前の、朦朧とする視界。その中に映る少女は、洋一の名前を確認した途端に 先までの緊張した態度から一転した。目を爛々と輝かせ、二本の結い髪を揺らしていた。
「四葉の、兄チャマ……」
 まるで夢でも見ているかのような恍惚とした視線を感じる。なんとなく『ヤバイ』と思った。
 一歩微妙に後ずさる。四葉と名乗る少女は、旅行鞄を手放した。
「兄チャマ、兄チャマだ! ホンモノの兄チャマ! きゃーーっ♡」
 気付いた時には押し倒されていた。猛烈な勢いでタックルを受ける。
 状況が確認出来た時に『これは抱擁である』と、やっと気付いた。
「あ……アンタ、アニキに何してるのーっ!?」
 ようやく鈴凛が我に返った。
「ずっとずっと会いたかったデス、兄チャマ!」
 イギリスで育つとこうもオープンなものなのか……と一瞬冷静に返りつつ、とにかく 四葉を押し退けた。これでは話しが出来ないし、近所の目がそろそろ気になる。
「落ち着いて、落ち着いて四葉ちゃん。とりあえず話は家でしよう」
「わぁー、兄チャマのお家に上がれるだなんて、四葉信じられません!」
 あのバカオヤジ! そこらのドッキリ番組を遥かに凌駕する事態が起こってしまった。
 いきなり女の子がやってきて、自分の事を『兄チャマ』と呼び、熱い抱擁をもって喜び、 そして今家に入ろうとしている。こんな奇天烈な事があって良いのだろうか?
「……あのバ……」
 バカオヤジ! と、口で言おうとした。
 しかし洋一は、その続きが何故か言えない。
 四葉に抱き付かれた時、ほんの少しだけ喜んでしまった自分が頭をもたげた。
 『お前、満更でもないだろ?』奴はそう囁く。
 そんな筈があるものか。バカオヤジの持ち込むキテレツ大事件を、どうして歓迎できるものか。
 『そんな事言ってもさ、ホラ、体は正直!』奴は大爆笑する。
「……バカムスコが……」
 緊急時にも働く悲しい性であった。
「アニキ、どうしよう?」
 鈴凛が渇いた言葉を紡いだ。
「俺が聞きたい」
 バカムスコを悟られぬよう、鈴凛に背を向けた。
 どこからか飛んで来た早咲きの桜の花弁が、鼻をかすめる。
「ふぇっくしょい!!」
 花粉症かな? 涙が出た。


――to be continued


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