冬の秋風
 


 手袋の上から刺してくるような風を手に受けて、時折ぎゅっと拳を握る。
 空気を切るようにして進めば肌に氷を当てられたように冷たく、白い頬にはうっすらと紅が浮かんだ。
 まだ昇って間も無い太陽は大気を暖め始めたばかりで、ひなたに
あっても冷気が光になって降り注ぐようである。
 そんな寒さを無視ししようとするように、一定のリズムでペダルは踏まれる。回るチェーンの音は軋むように聞こえた。
「寒いな……」
 誰に言うでもなく、千影は呟く。風は止まらない。
 流れて行く周囲を見るでもなく、何度となく見た道を進んで行く。
 いつもの角を曲がり、いつもの商店を通り抜け、いつもの坂を登る。そして、その小さな坂を降りた所に彼女の目的地はあった。
 坂の勾配が下りに変わる時に、その目的地は既に見えている。
 周囲の建築を見下ろすような佇まいの屋敷。敷地に広がる緑の庭園。それを囲む、城壁のような壁。
 坂の向こうには別世界が広がっているようで、千影はいつもの坂を何度降りようとしても眩暈を起こしそうになるのだった。 ここだけは「いつもの」と言えない所なのだ。
 世界と世界の境界を突き抜けるようにして、自転車は加速する。
 陽光を浴びたフレームが光った。





 亞里亞が自転車に興味を持ったのは、先週の日曜日の事だった。
 千影が亞里亞の家に招かれた時、ふと亞里亞は千影の自転車の事が気になった。
 それ以前にも千影は自転車に乗ってやって来た事があったし、衛はいつもお気に入りのマウンテンバイクでやってきていたのだが、 亞里亞はそれを無意識の内に受け入れていた。
 別段それを気にするでもなく、自転車を何気ない乗り物……車や飛行機と変わらない、自分とは縁の無い乗り物に見えていたのか、 自転車を無視していた。
   ところが、亞里亞は突然気づいてしまったのだ。
 馬の鳴き声のような唸りを上げない乗り物というのが、亞里亞にはひどく気になった。
 キーをささずとも、ペダル一つで動き出すとても気軽な乗り物。
 今まで誰かに飼いならされる巨大な獣を乗り物の中に見ていた亞里亞にとって、自転車の静かさ、軽快さは変わって見えたのだ。
 ベルが鳴らすなめらかな金属音は風鈴のそれに似ていて、亞里亞は自転車を風のようなものだと思った。
 風が姉やを乗せて運んでくるのだと、そう考えた。
「亞里亞も自転車に乗りたいです」
 ――じいやはそれを聞いたとき、自分の耳を疑った。
 今まで乗り物を「運転」するという事に全く縁の無かった亞里亞は、木馬しか揺らした事が無い。
 亞里亞の周囲の乗り物には、いつも運転手が居る。
 そういう価値観の中で亞里亞の世話をしてきたじいやは、三輪車にすら亞里亞を乗せたことが無かったし、 亞里亞がペダルを漕ぐという動作は想像できなかった。
 異次元の生活にいくらか溶け込んでしまったじいやには、亞里亞の望みは寝耳に水だったのだ。
 唖然とした顔を覗き込む亞里亞に曖昧な笑顔を向けて、じいやは言葉を探した。こんな時、何と言えば良いのか?
「まず手頃な規格の自転車を探し、それからインストラクターを雇い、危険の少なく割合衛生的なフィールドを選択する?」
 じいやの頭の中がフル稼働した。一瞬の間に様々なシミュレーションが展開される。
 シミュレーションの結果は、全て目を覆いたくなるものばかりだった。
 初めて自転車に乗る練習をした時の事を思い出す。何度も倒れる自転車に挫けそうになりながらも跨る少女の姿は、亞里亞には重な らなかった。
 亞里亞のいつもの様子を見ていれば、自転車の練習が始まってから5分後ぐらいの様子が鮮明に目に浮かぶ。
「亞里亞さま……」
 困ったような笑いを作って見せる。言葉は決まっていた。
「まだ少し亞里亞さまには……」
 ――早過ぎる、と、言いかけたのを遮る声が一つ。
「……乗りたいのなら、練習に付き合うよ」
 静かに、けれどしっかりと、千影は言った。
 じいやは眩暈を起こしてしまいそうになった。
「しかし千影さま、簡単に練習と言いましても亞里亞さまは……なんというか、その、自転車には不向きな性格です。学校の送り迎え なら、いつも車を用意していますし、普段必要な事ではありません。何もわざわざ……それに、怪我でもしたら……」
 じいやの心配を首の一振りで払いのけて、千影は亞里亞に言う。
「亞里亞くん、自転車に乗った時にはね……みんな、秋の風になってしまうんだ。きっと、好きになる」
「……かぜ?」
「緩やかに、涼やかに……景色を全て流してしまうよ」
「わぁ……とっても楽しそうね、姉や……♪」
「ですが、亞里亞さま……」
「……じいやさん、姉が妹に自転車の乗り方を教えるだけなんだ。心配いらないよ」
 完全に秋風そよぐサイクリングロードに乗ってしまった二人に、ブレーキは利かなかった。
 じいやはそのまま口を噤み、「くれぐれも安全にだけはお気をつけて」とだけ言って踵を返した。  それから自転車が届く1週間後、インストラクターとして自転車のベテランであろう衛にも付き合って貰い、 3人で自転車の練習をする約束になった。
 珍しい千影からの電話に驚いた衛は、その内容を聞いてひっくり返った。
 受話器越しに、千影は微笑む。





 亞里亞の家の門の近くまでやって来た時、千影はぎょっとした。
 思わず急ブレーキを踏む。今まで魑魅魍魎の類は見慣れているという事で通しているのではなかったのか?
 いやしかし、あれはいくらなんでも……千影の心は饒舌になっ た。
静かに文字が積み重ねられるように流れていた心に突然破壊槌 が下されたような、激動が起こってしまった。
「亞里亞くん……なのか?」
 自転車から飛び降りて、千影は門の前に駆け寄った。
 自分の目が、何か信じ難いものを映している。それが本物かどう かを確かめなくてはならなかった。
「本物、か……」
「姉や、おはようございます♪」
 接近した。亞里亞は大好きな千影姉やに抱き付いて挨拶をする。
 千影はそれを受け止めるでもなく、目の前の事実にただ呆然と立 ち尽くすばかりだった。
「姉や、なんだか足がくすぐったいの」
「……そう……だろうね」
 亞里亞くんがジーンズである。
 一体この世の何処に、ジーンズを履くフランス人形があるだろう か。亞里亞がドレスであるというのは、ある種の「常識」を破って しまうものである。これからあと少しすれば来るであろう衛が例え ドレスに身を包んだとて、これ程の常識破りは存在しない。ショッ クだった。
 大層だろうが、この時千影の中で何かがらがらと崩れてしまっ た。別にダッフルコートにジーンズの亞里亞が可愛くないというわ けではないが、常識破り慣れしている筈の千影も、こういう方面の ハザードには弱かった。急所を突かれたのである。
 自転車の練習なんだから、大きな怪我が無いようにズボンである というのは頷けるが、やはりこれでは少し……と、自分の中の違和 感に折り合いを付けるのに苦心するのだった。
「千影さま、それではそろそろこちらへ」
「あっ……」
 じいやは、千影の心の中を察する……というか、共感をもったよ うに千影に声を掛けた。
「ナニモ、イウベカラズ」と、顔に書いて ある。千影は黙って頷いた。
「おーい、亞里亞ちゃん、千影ちゃん!」
 千影たちが門の中に入ろうかという時に、千影が来た方向とは反 対側の道から声が聞こえた。
颯爽と現れた小柄なシルエットは、衛 である。その後ろから少し遅れるようにしてもう一人の影が見え た。
 誰か……?と思い、千影が目をこらすと、花穂が自転車を漕いで いる姿が見えた。
 ある程度の距離まで衛と花穂が近付いてきた。
 衛が「えぇっ!?」と、また声を裏返した。
 亞里亞の姿をハッキリと認識出来る距離に入った時の3人の表情 はどれも似たようなものだった。花穂の場合、ハンドル操作まで間 違って、危うく壁に衝突する所だった。
 2人は自転車から降りて歩み寄る。
「アハハ……」
 コメント不可の姿勢で、とにかく曖昧に笑ってやってくる衛。
「あ、あのね、今朝庭のお花に水をあげてたら家の前を衛ちゃんが 通って、どこに行くの?って聞いたら、亞里亞ちゃんに自転車の乗 り方を教えに行くんだって聞いて、それから……きゃっ!」
 花穂はコケた。
 どうにかこうにか今までの経緯の説明を紡ぎながら歩を進めてい た花穂だったが、動揺は未だ激しく……無念の敗北であった。
 練習の時の怪我に備えて用意していた消毒液とカットバンは、ま ず花穂に使われる事になった。
 ひとまず役者は揃い、一同は練習場所となる芝生に向かった。だ だっ広い庭園を移動する。
「うーん、亞里亞ちゃんの自転車ってどんなのかなぁ?なんだか、 あんまり予想が付かないよぉ」
 花穂が少し擦りむいた掌をさすりながら言う。
「そう言われればそうかも……モノスゴイのが来るかも……?」
「……亞里亞の自転車は、ピンクのウサギさんなのよ♪」
「可愛い! いいなぁ、花穂が乗りたいぐらい……」
「カホちゃんも乗る?」
「……今日は亞里亞くんの練習だよ」
「あ、そっかぁ……それじゃあ、また今度だね」
 花穂が来ると、場の空気が明るくなるのだった。こころなしか気 温も少しだけ暖かくなってくる。中々良いパーティになった。
「わぁ……これが亞里亞ちゃんの自転車なんだぁ……♪」
「ホントに可愛いね、亞里亞ちゃんにピッタリだよ!」
「へぇ……中々、良いね」
 三者三様の反応が、練習場所に置かれた新品の自転車に向けられ る。白ウサギのイラストが入ったピンクの自転車。千影は、イラス トのウサギの何処か遠い目線が、亞里亞に似ていると思った。
「よーし、それじゃあ亞里亞ちゃん、練習……始めようか!」
「亞里亞さま、くれぐれもお気をつけて」
 じいやの心配をよそに、衛コーチの自転車練習が始まる。
 花穂の顔にも少し緊張の色が浮かんだ。
 千影は……亞里亞の傍に近寄り、既にしっかりサポートする準備が 出来ていた。
「それじゃあ亞里亞ちゃん、まずは自転車に乗ってみようか」
 亞里亞は頷いて、自転車の隣に付く。
「……えっと、あ、亞里亞ちゃん?」
 亞里亞は動かない。
「ほら、サドルをまたいで……」
 亞里亞は、サドルに『腰掛けている』。
「……。」
 一同は唖然とした。
「……?」
 首を傾げる亞里亞。
「……亞里亞くん……」
 亞里亞が自転車に乗れる日は来るのだろうか?四人はとてつもなく大きな不安に襲われた。
 そのとき突然止まった風に、千影は不安を占うのだった。


続く




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